yuki murai
村井 祐希
アーティストステートメント 2025年4月頃
私は世界で有名になるために、少年漫画の主人公のような元気なアーティストを演出し、規格外に巨大な絵画群を発表してきた。しかし、それによって私の作品は「アーティストのキャラクター」を通して一義的に受容され、人々の鑑賞体験が固定化されることを感じた。
アーティストのキャラクターは、本人が意図せずとも、社会的なペルソナとして形成され、作風もその一部となる。私は、この状況を前提としつつ、人々が自身の感覚を率直に握りしめながら作品と関わる「機会」をどう作れるかを探求している。
2020年の個展「ゆらいむうき」では、鑑賞者が実際に動かせる絵画を発表し、絵画の身体性を作者から鑑賞者へと拡張し、鑑賞者の身体の運動や内的な感覚を絵画に実体化する試みを行った。
2025年の個展「ゴン!と演じる『M』」では、アーティストのキャラクターの受容を否定するのではなく、むしろキャラクターを絵画内で演じ直すことで、キャラクターが絵画の多義的な構造を纏いながら、それぞれの鑑賞者の鑑賞に固有に立ち上がり、多面的な存在として上演することを試みた。
私は、アーティストのキャラクターの周辺に停滞する人々や事物のおもいっきり豊かな交通を可能にする「起点」として絵画を実践する。
村井祐希
ゴン!と演じる「M」
アーティストステートメント
「絵具がたくさん盛ってあってめちゃくちゃ大きいので、村井さんの絵ってすぐに分かりました~!」
アーティストの振る舞い、言動、風貌からなるパブリックイメージや作風が社会で共有され同一性を獲得することで、アーティストのキャラクターが構築される。
人々は、アーティストのキャラクターの受容の一環として、そのアーティストが制作した作品を消費することが可能だ。その場合、作品はアーティストのキャラクターを演出するための小道具ともなり得る。
近代において、マルセル・デュシャンがアートの価値付けに「命名」を重視し、アーティストの名前がいかに残るかという評価軸の中に、作品の価値を埋没させる構図が明確になったと言える。これ以降この構図に自明な実践は今や珍しくない。今日のアーティストは、自身のキャラクターと作品をセットで売り出し、鑑賞者もそれを当たり前に受容する。
2000年以降ジェフ・クーンズや村上隆などは、アーティストのキャラクターと作品をブランド的アイコンとして一つに結合させ、あらゆる階層の文化やメディア、コミュニティを横断した。その要塞ばりに強力な同一性は、作品の個別的差異を隠し、作品に対する個人的な見解は受け付けないと思わせるくらいに頑固に一義的だ。
私自身もこれまで、少年漫画の主人公を彷彿とさせる元気なキャラクターを演出し、その舞台装置かつ目印として巨大で派手な絵画群を発表してきた。
日本で活動する私が痛切に実感していることがある。
それは、アーティストのキャラクターがしっかりと構築された時、鑑賞者の視点がアーティストのキャラクター、又は作品単体に焦点を当てたもののいずれかに偏り、鑑賞者を二分化させてしまうことだ。
前者はアーティストのキャラクターを起点にして、物語の共有を拡大し、後者は単体の作品や展覧会を起点とした批評や言説化を行う。両者の乖離は、双方の視点を結合した実践とそれを言説化し発展させる場を奪う。また前者は、影響力が拡大しやすいことなどから、鑑賞者が作品と関わる際の指標を知らぬまに包摂してしまったりする。キャラクターを演出するアーティストに至っては、実践がキャラクターの演出に収束していき、個別の作品の制作テーマが断片化して停滞する。
同時代にアートと関わる私たちは、作品と関わることとキャラクターの受容のちぐはぐな関係が巻き起こす事態が、自らにどう影響しているのかを整理しないと、自分がどういう立ち位置から作品と対峙しているのか、主体性を見失ってしまうことが往々にしてある。
椹木野衣はそういった日本の状況を示唆するように、山下清の作品鑑賞、分析を行う際、まずアーティストのキャラクターとそこに混同された作品をそれぞれ分離して、鑑賞における自身の立ち位置を整えることから始めた。★1
制作は、誰にも規定されない作者の問題を煮詰めたテーマを、しかし作者すら予想し得ない形で跳ね返って作品を生む。鑑賞には、作品の中に独自の発見をして、その因果関係を主観的に推理していく自由がある。これらの起点となる作品の周りには、様々なテーマや人々や事物の関わりが、絡まり合いながら、時間や場所を横断して渦巻き、可変的に生きている。作品は、そのような到底人にコントロールできない魅惑的な力を纏い続けるものだと、私は考える。ところがこのような誰しもが持ちうる作品との多義的な関わりの可能性が、アーティストのキャラクターの同一性に囲いこまれて、回収されたり、すでに置き換わっていたり、また行き場を無くして忘れさられることもあるだろう。
このような事態を避け、作品の多義的な在り方を感じ取るためには、アーティストのキャラクターの受容に敵対するのではなく、同時代に作品と関わる固有の条件として考える必要があるのではないだろうか。
そこで今展覧会において、私たちが一人一人固有に感じ得る作品の(観念的な、物理的な)存在の感触と、それを埋没させ得るアーティストのキャラクターの受容の合流地点を探してみたい。
そのために、「キャラクターの受容」という出来事を絵画のメディウムの1つとして扱う。
キャラクターの受容は、フィクションの物語の登場人物にキャラクターを重ねる傾向がある。この場合、キャラクターはフィクションの世界に生きることを想像させつつ、絵画の中で鑑賞者の鑑賞の物語にも同時に生きる。ここにこそ、キャラクターの受容の多義的な可能性がある。この可能性を、漫画や絵本の形式を絵画に投入しながら、18世紀のフランスで流行ったロココの絵画のいくつかの引用を交えて実践的に問う。
また、私は作品で扱う立体的な絵具を「オムライス絵具」と名付け、自身のキャラクターを象徴する存在として売り出したが、この例に限らず、アーティストのキャラクターを構築する材料である作風や絵柄を背負う作品は、それ自身がそのアーティストのレッテル貼り的キャラクターとなる場合がある。作品はキャラクターとして受容される中、様々な人々や事物と関わり合う可変的な多義性を自らに維持することはどのように可能なのだろうか。
これらの実践を通して、アーティストのキャラクターの受容の静脈として走る「共有」の流れを、人々を匿名化させ集合させる場ではなく、私たちの差異を反映可能な場に向かわせる。
アーティストのキャラクターの周辺に停滞する作品の在り方、制作実践、それらを捉える目や語る口、手が、
おもいっきり豊かに交通する経路を開いてしまおう。
村井祐希
★1
山下清作品集 河出書房新社
M, Acting with a Bang!
Artist Statement
“Oh wow, I knew right away it was Murai-san’s painting—it’s got so much paint on it and it’s just crazy big!”
An artist’s character is shaped through the public image formed by their behavior, speech, appearance, and artistic style, which are collectively recognized and solidified in society. As part of this recognition, people can consume the artist’s works, reinforcing their character. In this context, artworks can function as props that enhance the artist’s persona.
In the context of contemporary art history, Marcel Duchamp gave prominence to ‘naming’ as a key factor in assigning value to art, establishing a framework where the worth of an artwork became embedded within the recognition of the artist’s name. Since then, the practice of art applying this framework has become far from uncommon. Today, artists market themselves as a package—character and works combined—while audiences naturally accept this dynamic.
Since the early 2000s, artists like Jeff Koons and Takashi Murakami have fused their personal character with their artworks as brand-like icons, transcending cultural, media, and community boundaries. This fortress-like, powerful singularity conceals individual differences between works and is so rigidly unambiguous that it almost rejects personal interpretations of the artworks. In my own practice, I have also presented a lively character reminiscent of a protagonist from a shōnen manga and have exhibited large, flamboyant paintings as both the stage and the marker of this persona.
One thing I strongly sense as an artist working in Japan is that when an artist’s persona is firmly established, viewers’ perspectives tend to become polarized—either focusing on the artist’s persona or on the individual work itself. The former expands the shared narrative through the artist’s character, while the latter engages in critique and discourse centered on singular works or exhibitions. This divide strips away the opportunity for practices that integrate both perspectives and the spaces where such discourse can evolve. Furthermore, the former, due to its strong influence, can inadvertently shape the way viewers engage with the artwork. For artists who perform a persona, their practice may increasingly revolve around performing that character, leading to a fragmentation and stagnation of the thematic development in their individual works. As those engaged in contemporary art, if we fail to examine how this disjointed relationship between engaging with works and accepting artistic personas affects us, we risk losing sight of our own position in relation to the artworks and ultimately, our sense of agency.
The art critic Noe Sawaragi, as if suggesting such a situation in Japan, started by separating the artist’s persona from the works that were often conflated with it when analyzing and appreciating the works of Kiyoshi Yamashita, in order to establish his own position as a viewer. *1
The creation of an artwork distills the artist’s personal concerns—ones defined by no one—into a theme, yet the work itself emerges in a form even the artist could not have anticipated. In engaging with the artwork, the viewer is free to discover unique elements within it and to subjectively interpret their causal relationships. Extending from the work, various themes, people, and objects intertwine, swirling across time and space in a constantly shifting state of existence. I believe that an artwork continues to be imbued with this alluring, uncontrollable force. However, the potential for such multifaceted relationships with a work—something inherently available to anyone—can sometimes be enclosed within the fixed identity of the artist, assimilated, replaced, or even left without a place, fading into oblivion.
To avoid such a situation and to fully appreciate the multifaceted nature of an artwork, it may be necessary not to oppose the reception of the artist’s character, but rather to consider it as an inherent condition of engaging with the work in our time.
In this exhibition, I aim to explore the intersection between our individually perceived sense of an artwork’s (both conceptual and physical) presence and the reception of the artist’s character, which has the potential to eclipse it. To this end, I employ the “reception of character” as one of the mediums of painting.
The reception of characters tends to involve overlaying characters onto the figures in fictional narratives. In this case, while the character evokes the imagination of living within a fictional world, it simultaneously exists within the painting as part of the viewer’s own narrative of appreciation. This is precisely where the ambiguous potential of character reception lies. This potential is explored in a practical manner by incorporating elements of manga and picture book formats into painting, while also referencing certain Rococo paintings that were popular in 18th-century France.
I named the three-dimensional paint material used in my works “Omuraice Paint (Omelette Rice Paint)” and marketed it as a symbolic representation of my own character. However, beyond this specific example, an artist’s signature style and visual language—elements that shape their artistic identity—can themselves become a kind of label-like character. As artworks are received as characters, how can they maintain a fluid and multifaceted nature that allows them to interact with various people and objects while preserving their own adaptability?
Through these practices, I aim to direct the flow of “sharing,” which runs as a vein through the reception of an artist’s character, not toward a space that anonymizes and aggregates people, but rather toward one that allows for the reflection of our differences.
Let us open up pathways where the works that linger around an artist’s character—the modes of creation, the eyes that perceive them, the voices that speak about them, and the hands that engage with them—can move and interact freely in all their richness.
Yuki Murai
*1 Yamashita Kiyoshi: A Monograph of His Paintings/Kawade Shobō Shinsha
アーティストステートメント 2023年4月頃
私は世界で有名になるために、これまで「元気な作家」として巨大な絵画群を人々の間に広めてきた。しかしそれによって、それぞれの人々と私の絵画との関わりは、一つの作家像という紋切り型に収められてしまう事を感じた。
私の事に限らず、作家像は、作家が意図せずとも、資本的な価値や歴史的な評価という外部の力によって、絵画と鑑賞者の間にフィルターとして設置される。
その様な状況において、絵画と人々との固有の関わりの「機会」はいかに作れるだろうか。
私はそれを「絵画における身体性の刷新」や「絵具と人間の関係性の再構築」で実践している。
2020年のMAHO KUBOTA GALLERYでの個展「ゆらいむうき」展では、鑑賞者が実際に「動かせる絵画」を発表した。
絵画において「身体性」という言葉が用いられる事がある。その議論で有名なものに、ハロルド・ローゼンバーグのアクションペインティングがある。
例えば、ジャクソン・ポロックの絵画の痕跡から、ポロック自身のドリッピングの描画行為を想像する事を「身体性」と呼ぶ事がある。
しかしそれならば、鑑賞者が「行為」を想像できる痕跡を見出せたら、どんなものにでも、そこには「身体性」があるという話になってしまう。
その事は、絵画を見る鑑賞者が、「過去」の画家の身体を空想しているに過ぎない。対して、私の実践は、鑑賞者の「現在」の身体に起こっている事を、絵画でどの様に実体化させるか、というものである。
一方で、ジル・ドゥルーズは感覚の論理学で、フランシス・ベーコンの絵画の「図像」は肉体に属する神経系統に直に作用するものだと論じた。
その様な作用が、絵画が置かれる場(美術館やギャラリー、誰かの家、SNSなど)での人々のコミュニケーションという「脳」を媒介する作用によって、上書きされるのを経験した事がある。
私は、むしろ鑑賞体験において、場での出来事が絵画のイメージを作ると、逆説的に考えている。だからこそ、絵画をイメージの表象以前にまで遡り、その素材である絵具を自立させる。
私は絵具と人間の関わり、または共同において、絵画を見出す。
「動かせる絵画」において、絵具はそれ自体が可変可能な運動体となり、鑑賞者によって直接動かされる。
絵具を動かしている鑑賞者の身体は、絵具の動きによって画面上に実体化される。その「実体化」は、場に公にされるものだが、同時に、絵具とそれを動かしている鑑賞者の間だけに現れるイメージの「実体化」もある。
それは、私が夜の山の中で「スケッチしていたもの」に由来する。
夜の山の暗闇の中では、視覚を通して事物を知覚するのではなくて、自らの身体の五感の感覚の総体で視覚を作り出す。
例えば、暗闇から草が押し潰される音が聞こえると、私はそこに獣のイメージを想像する。しかし、その姿を暗闇の中に確認する事は出来ない。その事態がよりいっそう私に獣を「見させてくる」。
絵具を動かしている鑑賞者にとって、絵画はまさに夜の山の暗闇であり、それは「私だけの見る事の実感」を身体に与え始める。
「絵画における身体性」はもはや、鑑賞者の空想という私的領域のみならず、絵具とそれを動かす鑑賞者によって、両者の関わりの間と、公の場という二つの特定の領域にまで拡張されて、そこで絵画のイメージとして、または絵画に与えられた「生」として実体化する。
村井祐希
ゆらいむうき
アーティストステートメント
ゆらいむうきは絵具と人間の擬似融合の実践であり、異種混合の共生を瞬間的に体感する場である。
「身体性」の発生地点が対象を観察してイメージを膨らませるところにあるとするならば、絵画はそれを具現化するための擬態道具の役割を背負ってきた。
絵具はこの荷を下ろすべく、ある主体的イメージが成立する以前の起源に引力を起こす運動体となる。
夜の山の暗闇に身を投じると、網膜は曖昧になるが、身体は鋭く状況を感知し始める。
動物か何かが草を押しつぶして移動する鈍い音がきこえてもその様子をはっきりと確認することは出来ず、想像の主導権を握れなくなる。
このブラックホールの中身に続く誘導経路を描き、あなたと絵具を案内する。
村井祐希
村井のいっぽ
アーティストステートメント
村井は今展覧会、絵画における絵具と人間の関係性を刷新するための実戦をおこなう。
この実戦をおこなうにあたり、村井は自分を含めた3人の人間、庄島明源、野島健一、村井祐希を制作のための装置にした。
村井と庄島は互いの制作原理を暴き出し、主体の抹殺合戦を繰り広げる。
野島はその過程を形式として示し、記録していく。
この様な制作の中で、3人の主体の関係性は目まぐるしくスピンする。
絵具はその勢いで私達の元から己を自立させるタイミングを見計らっているのだ。
「オムライス絵具」はキャンバスの枠組みを描画した絵画を成立させて、村井を驚かせた!
実戦的制作は主体の思考を思わぬ方向に飛躍させ、強靭な柔軟性を持つ絵具がそれを可能にしているのだと村井は確信したのだ。
この実戦は絵具を人間の道具から解放するための革命である!
村井 祐希
千年に一度のムライ
「千年に一度のムライ」といわれている『村井祐希』は現在、突出した絵画群を「日本」で制作している!
最強のメディウムである「オムライス絵具」(ムライが使用するむにゅむにゅした、まるで卵をかき混ぜたような絵具である。)と共に追求している.。
西米の概念、ルールに従った必然的な表現主義は、いくら破綻させてもCOOLにみせる事が可能だが、逆にどこまでもメタである事からは逃れられないものだ。。。絵画のビジュアル等に抱く、非概念的な憧れから発生する、積極的なフォーマリズムの誤読解釈は、想像すら出来ない突出した表現主義になるのである!!!!!(非概念的にまでみえるダリの超演出法も見習うべきである。)
近年みられる「ゾンビフォーマリズム」のような、表層的なモダニズム絵画の更新等、フラジャイルなものではなく、かつて具体の吉原良治が言った「人の真似をするな。今までにないものをつくれ」という西洋絵画から断絶しつつも、反体制としての切断面がみえるような、土着的な表現を下敷きにしたもの!!物理的にも破綻してしまう突出したビジュアル(80年代キーファーを筆頭とした新表現主義の絵画群を超えるような!)によって、いかなるコンテクストも全て絵画へと後退させるのである!!!
オリンピック超楽しみ!!!
村井祐希