top of page

このサイトは、2025年2月7日から3月8日にかけてMAHO KUBOTA GALLERYで行われた

村井祐希の個展​『ゴン!と演じる「M」』のアーカイブです。

This website is an archive of Yuki Murai's solo exhibition M, Acting with a Bang!, held at MAHO KUBOTA GALLERY from February 7 to March 8, 2025.

~搬入伝説~ シャルダンの木いちごに、おれはなる!!!! 2024 パネルにケント紙、アクリル、水彩、ミクストメディア 43. 2 x 46.2 x 9cm

~搬入伝説~ シャルダンの木いちごに、おれはなる!!!!

2024

43. 2 x 46.2 x 9cm

パネルにケント紙、アクリル、水彩、ミクストメディア

 

ゴン!と演じる「M」
アーティストステートメント

「絵具がたくさん盛ってあってめちゃくちゃ大きいので、村井さんの絵ってすぐに分かりました~!」

アーティストの振る舞い、言動、風貌からなるパブリックイメージや作風が社会で共有され同一性を獲得することで、アーティストのキャラクターが構築される。

人々は、アーティストのキャラクターの受容の一環として、そのアーティストが制作した作品を消費することが可能だ。その場合、作品はアーティストのキャラクターを演出するための小道具ともなり得る。

近代において、マルセル・デュシャンがアートの価値付けに「命名」を重視し、アーティストの名前がいかに残るかという評価軸の中に、作品の価値を埋没させる構図が明確になったと言える。これ以降この構図に自明な実践は今や珍しくない。今日のアーティストは、自身のキャラクターと作品をセットで売り出し、鑑賞者もそれを当たり前に受容する。

2000年以降ジェフ・クーンズや村上隆などは、アーティストのキャラクターと作品をブランド的アイコンとして一つに結合させ、あらゆる階層の文化やメディア、コミュニティを横断した。その要塞ばりに強力な同一性は、作品の個別的差異を隠し、作品に対する個人的な見解は受け付けないと思わせるくらいに頑固に一義的だ。

私自身もこれまで、少年漫画の主人公を彷彿とさせる元気なキャラクターを演出し、その舞台装置かつ目印として巨大で派手な絵画群を発表してきた。

日本で活動する私が痛切に実感していることがある。
それは、アーティストのキャラクターがしっかりと構築された時、鑑賞者の視点がアーティストのキャラクター、又は作品単体に焦点を当てたもののいずれかに偏り、鑑賞者を二分化させてしまうことだ。
前者はアーティストのキャラクターを起点にして、物語の共有を拡大し、後者は単体の作品や展覧会を起点とした批評や言説化を行う。両者の乖離は、双方の視点を結合した実践とそれを言説化し発展させる場を奪う。また前者は、影響力が拡大しやすいことなどから、鑑賞者が作品と関わる際の指標を知らぬまに包摂してしまったりする。キャラクターを演出するアーティストに至っては、実践がキャラクターの演出に収束していき、個別の作品の制作テーマが断片化して停滞する。
同時代にアートと関わる私たちは、作品と関わることとキャラクターの受容のちぐはぐな関係が巻き起こす事態が、自らにどう影響しているのかを整理しないと、自分がどういう立ち位置から作品と対峙しているのか、主体性を見失ってしまうことが往々にしてある。

椹木野衣はそういった日本の状況を示唆するように、山下清の作品鑑賞、分析を行う際、まずアーティストのキャラクターとそこに混同された作品をそれぞれ分離して、鑑賞における自身の立ち位置を整えることから始めた。★1

制作は、誰にも規定されない作者の問題を煮詰めたテーマを、しかし作者すら予想し得ない形で跳ね返って作品を生む。鑑賞には、作品の中に独自の発見をして、その因果関係を主観的に推理していく自由がある。これらの起点となる作品の周りには、様々なテーマや人々や事物の関わりが、絡まり合いながら、時間や場所を横断して渦巻き、可変的に生きている。作品は、そのような到底人にコントロールできない魅惑的な力を纏い続けるものだと、私は考える。ところがこのような誰しもが持ちうる作品との多義的な関わりの可能性が、アーティストのキャラクターの同一性に囲いこまれて、回収されたり、すでに置き換わっていたり、また行き場を無くして忘れさられることもあるだろう。

このような事態を避け、作品の多義的な在り方を感じ取るためには、アーティストのキャラクターの受容に敵対するのではなく、同時代に作品と関わる固有の条件として考える必要があるのではないだろうか。

そこで今展覧会において、私たちが一人一人固有に感じ得る作品の(観念的な、物理的な)存在の感触と、それを埋没させ得るアーティストのキャラクターの受容の合流地点を探してみたい。

そのために、「キャラクターの受容」という出来事を絵画のメディウムの1つとして扱う。

キャラクターの受容は、フィクションの物語の登場人物にキャラクターを重ねる傾向がある。この場合、キャラクターはフィクションの世界に生きることを想像させつつ、絵画の中で鑑賞者の鑑賞の物語にも同時に生きる。ここにこそ、キャラクターの受容の多義的な可能性がある。この可能性を、漫画や絵本の形式を絵画に投入しながら、18世紀のフランスで流行ったロココの絵画のいくつかの引用を交えて実践的に問う。

また、私は作品で扱う立体的な絵具を「オムライス絵具」と名付け、自身のキャラクターを象徴する存在として売り出したが、この例に限らず、アーティストのキャラクターを構築する材料である作風や絵柄を背負う作品は、それ自身がそのアーティストのレッテル貼り的キャラクターとなる場合がある。作品はキャラクターとして受容される中、様々な人々や事物と関わり合う可変的な多義性を自らに維持することはどのように可能なのだろうか。

これらの実践を通して、アーティストのキャラクターの受容の静脈として走る「共有」の流れを、人々を匿名化させ集合させる場ではなく、私たちの差異を反映可能な場に向かわせる。

アーティストのキャラクターの周辺に停滞する作品の在り方、制作実践、それらを捉える目や語る口、手が、

おもいっきり豊かに交通する経路を開いてしまおう。

村井祐希

★1
山下清作品集 河出書房新社

実践の舞台裏

~ロココの絵画についての補足~

 

ステートメントに記述のとおり、今展覧会の実践では、ロココの絵画のいくつか(ヴァトー、ヴェルネ、シャルダン、フラゴナール)を引用している。その補足を以下に記述する。

 

まずは、私のヴァトーの「ジル」の鑑賞記録から読んでいただきたい。  

ヴァトー ジル

ヴァトー ジル 1718-1719年頃


画面中央に白い服を着て立つ人物が、ジルだと思われる。

ジルは、木と空の風景を背景に、彼を囲う人たちより一段高い舞台に立ち、注目されているようだ。しかし、周りの人たちは彼を見ていない。一体どういうシチュエーションなのか。私には、ここが演劇の舞台のように思われた。

ジルの物悲しく儚げに見える顔の表情は、何を物語っているのだろうか。

顔の左半分に深く落ちた影が、画面上に奥行きを作り、そこに私の視線を引き込み、彼の内面への考察に誘い込む。しかしその時、画面上で最も明るく照らし出された腹部の白色が見えてきて、それがまるで私に向かって突き出てくるような白い塊となって、私の視線を画面の外へと弾き返してしまった。こうして絵画の画面、またはジルの内面への没入は阻止される。

 

この経験から、ジルは内面性が表現されているにも関わらず、それを誰にも曝け出せないピエロの責務を徹底されている、というキャラクターが私の鑑賞の中で立ち上がった。

 

ピエロとしての在り方が際立つ内面への没入の不可能性は、鑑賞者それぞれが解釈の補完が可能な余白である。腹部の白い光は、ジルの内面を守るだけでなく、キャラクターの一義的な同一性の形成も防いでいる。こうしてジルは、それぞれの鑑賞者の体験の中で、可変的に形成されていくキャラクターとして、受容されることが可能な存在として描かれている。

 

この鑑賞の経験からも分かるように、ロココの絵画に描かれるモチーフは、2つの物語のそれぞれの「役」を二重に演じる器用な存在である。

 

モチーフは、具象的に見れば、人物や静物、風景、船、服などであり、それらの配置により想像される「具象的シチュエーションの物語」の「役」をそれぞれが演じている。例えば、ヴァトーの絵においては、ジルという具象的モチーフが、演劇の舞台に配置され、人に囲まれて、悲しげな表情をしているので、私はジルが周りの人たちにいじめられて、晒し者にされている、という物語を想像した。彼や彼の被る帽子、周りの人たち、ロバ、地面や背景の木などの全ての具象的モチーフが、こういった「具象的シチュエーションの物語」の「役」を演じている。しかし、同時にモチーフは、抽象的に見れば、色や形や空間そのものでもあり、それらを鑑賞者が知覚することから成る「抽象的知覚の物語」の「役」をそれぞれが演じている。例えば、ヴァトーの絵においては、影が落ちた顔は奥行きを持った空間であり、腹部は手前に突き出た白い塊であり、私はそれらを知覚することで、画面への没入と阻止という物語を感覚的に体験した。ジルの顔の空間や、腹部の白、またはジルの腕の服の皺や、背景の木の黒いシルエットなどは、「抽象的知覚の物語」の「役」を演じている。

 

ロココの絵画は、この「具象的シチュエーションの物語」と「抽象的知覚の物語」が二重的に編み込まれて構成された「戯曲」である。モチーフは、鑑賞者の鑑賞によって、2つの物語それぞれの「役」を二重に演じて、2つの物語を交差させながら上演し、キャラ立ちする。

鑑賞者によって、モチーフに「役」を演じる際の性質や特徴が見出され、モチーフ自体に独立した人格が宿ってキャラクターが構築されるとも言える。

 

例えば、ヴァトーの絵においては、「具象的シチュエーションの物語」でジルの表情から内面性が垣間見え、「抽象的知覚の物語」で彼の顔の影の空間によって内面への没入を誘われるが、腹部の白い塊によってそれが阻止される、という2つの物語の交差が起こり、彼は、内面性はあるがそこに誰も入り込めないピエロ的キャラクターとしてキャラ立ちした。

 

また、ロココの絵画においては、同じモチーフが1人のアーティストの複数の絵画に何度も登場する傾向がある。

この傾向のさらなる特徴として、あるモチーフは、複数の絵画に、同じ「役」ではなく、色んな「役」で出演することや、逆に複数の絵画で反復されるおなじみの「役」を、あらゆるモチーフが演じることが挙げられる。

また、「役」が構成する戯曲は、それぞれ一枚の絵画の中で固有に紡がれているため、モチーフが反復的に登場するからといって、このモチーフはあの「役」しか演じない、といった固定化は起こらず、それぞれの絵画にオリジナルな配役、出演の仕方がある。ここではむしろ、モチーフの反復的登場が、モチーフのキャラクターの性質や人格を多面的にしていく。(ただしシャルダンの静物画のナイフのモチーフだけは例外であると私は考えている。)

 

これはロココの絵画が、モチーフにキャラクターを構築するための同一性を獲得させることよりも、一枚一枚の絵画に独自の戯曲を紡ぐことを優先していることを意味する。

 

鑑賞者が複数の絵画の鑑賞を積み重ねていくうちに、その経験の総体が、あるモチーフの人格の血肉、骨となる。そうして形作られたキャラクターは、さらに鑑賞者と絵画の関わりを原動力にして、両者の間を行き来しながら、多面的な特徴や性質、人格を構築していくことが可能である。

 

ここには「キャラクターの受容」と、「個人が作品と固有に関わること」の合流の機会がある。この機会を今展覧会に設けるため、ロココの絵画の戯曲のいくつかを再演する。

​お問い合わせ

展覧会についての意見、感想、その他どんなことでもお気軽に連絡ください。
​村井祐希

Contact us

bottom of page